この企画に想うこと - 3

人間という言葉って、面白い言葉だと思うんです。

人のあいだ、と書いて人間。んー、面白い。この言葉は明治時代に西洋近代学問を輸入する際、今までにない概念を翻訳する必要にせまられ、福沢諭吉を中心とした人達によって大量に翻訳された言葉のうちの一つと聞いたことがあります。

その出典を知りたくてググって見たのですが、そこら辺を説明しているページが見つかりませんでした。人間の語源 によれば、もともとは仏教用語で人の世、人の世界、という意味をもった言葉らしいのですが、江戸時代以降人間に人の意味が加わった、と説明されているので、明治時代の翻訳語というのは記憶違いかもしれません。ただ、human being の訳語として「人間」が設定されたような気はします。

  人の世、人の世界、という意味をもった仏教用語が時を経て、人そのものを意味する
  ようになり、さらに現在では「人の世界」という原義が消えてしまった。

面白いですよね。人と人間、英語と対にすると human と human being

  なにか面白くありませんか ?

哲学的テーマで「人」を語る時は「人間」という言葉を用いて「人」という言葉を使うことはあまりないと思います。まあほぼ 人=人間 と解釈されていますから、ないといったら嘘になるでしょうが。英語はよくわからないので human being の用法が日本と同じかどうかの確信はありませんが、辞書の意味を調べる限りでは同じような使われ方をしているように思います。

「人」が人間の持つ動物的側面を意味しているととらえてみてください。それに何かをたすことで「人間らしさ、人間とは何か?」を意味する哲学的言葉に変化しているわけです。

その「何か」に選ばれた言葉は

  日本においては「間、between」 西洋、キリスト教圏では「being」

この違い、面白くありませんか? この違いは「人間らしさ」に対する価値観の違いを如実に表していると思えて仕方がありません。これは多分擦り合わす事の出来ない根本的なズレなのではないか ?  このズレはどこから来るのか ?

そんな事を考えていたら、以前読んだ山本 七平さんの「日本資本主義の精神」を思い出したのです。

【 要約 】
相手との契約が守られるのは、その人が神との契約を守ったゆえに生じた結果であって、相手との間に契約があるわけではない。
(中略)
神との契約の内容が同一である二人の人間の間には、相互契約も話し合いも必要ではない。いわば、この場合は貸し手も借り手も、神との契約が同一なのでなんの話し合いもなくすべてが決まってしまうわけである。
これに対して、日本にも「天地神明に誓って」という言葉があるではないか、という反論もあるだろう。ところがこの言葉は、相互に強く約束の遵守を誓うため「天地神明」を証人もしくは保証人にとしているのであって「天地神明」との契約だけがあって、人と人との間に話し合いが必要でない、という状態ではない。
88P-

すこし分かりにくいので、同書の図解から起こした画像を作りました。

この図は、相手と契約するにあたって、信頼に値すると思う根拠がどこにあるのか? という事に対する日本と西洋の考え方の違いが端的に示されていて、大変興味深い図だと個人的に思っています。日本では「よく話し合った結果」西洋では「同じ神に同じ誓いを立てた結果」。すごく面白い断定の仕方だと思いませんか ?

話を戻しまして、なぜ「human」に「being」がつくと「人間らしさ」を表すようになるのか?
その事について少し考えてみたいと思います。

キリスト教とか西洋哲学とかに詳しくないので、かなり適当でいい加減に論じてしまうことになるがお許し頂きたい。上記の画像を参考にとれば、一神教の世界では人と人との間に関係性はなく(極論だけど)、神と人との間のみに関係性があることになる。

それで思い出したのが、渡部 昇一先生の「日本史から見た日本人 古代編」。原本が手元にないので記憶を元に引用するが(引用元がこの本だったかどうかすら怪しい)

「西洋人はなぜ個人主義なのか?」 という問いに対しては

  「最後の審判が個人を対象とするからです」

と答えます。最後の審判で問われるのは唯一神との関係だけで、その人が家族や友人にどれだけ尽くそうが関係ない。西洋人の個人主義はこういう信仰からくるのであって、この信仰なしの個人主義は「ワガママの勧め」以外の何者でもない。

と言うようなことを述べています(すいません、記憶は曖昧です)。少しちがう話ですが、ピーター・フランクルさんは、

僕が他人に何か親切なことをしても「あなたのような親切な人との出会いを与えてくれた神に感謝します」とお礼を言われることはおかしいと思っています。僕に感謝して、僕に。神様関係ない。

のようなことを言っています。ピーター・フランクルさんはユダヤ系で無神論者だそうですが、そんなふうな神様を介した感謝にイライラしていたそうです。

この唯一神がもたらす世界観を、日本人である僕にはうまく想像出来ないですが、人と人との間に常に「偉大なる唯一神」が入ってくる世界と考えることができそうです。

そう考えると究極的には、神と人との一対一の関係のみがその人の世界の全てと解釈できるようになると言えそうです(無論極論です)。その世界で人間らしさをもたらしてくれるものは何か? を考えると「神は常に私を見ている」とか「神は常に私と共にある」とか「神と共にありつづけたい」あるいは「神に認められたい」という感覚が「人間らしさ」の根源になっているように思えます。そう考えれば「being」が選ばれる理由もわかる気がしてきます。

とはいえ、すべて僕のコジツケ理論なのでぜんぜん違う理由のような気もします。ただ「being」のニュアンスからいって「西洋人の人間らしさは一人で成立する」と考えて問題ないと言えるのではないでしょうか ?

続きます。