義援金に対する3つの違和感を解消してくれたもの (1)

前述のように Hack for japan のスタッフの活動を見ていただけでも、十分やる気は出たんですが、本気で Hack for japan の活動(ダジャレクラウド等)に取り組んでみようと思ったのは「一口オーナー制度」を知ってから。

それを考え続けたことで様々な疑問点が氷解し、自分のやりたい事、3.11以降考え続けていた事、Hack for japan で何をやるべきか?等が急速に繋がりだしたから。

「一口オーナー制度」は僕の義援金等に対して感じていた漠然とした3つの違和感を見事に解消してくれました。

一つ目は「一口オーナー制度」という形式の興味深さは何か? を考え続けてようやくわかった事。それは

  義援金の視線の向きは後ろ向き

ということ。別の言い方をすれば過去へ向いている。わかりやすく言えば「死んだ子の年を数える」行為。失ったものを補填する目的の金といえばいいだろうか。たとえば、現在損失額合計の試算として最大25兆円と算出されているそうです。義援金が現状どの位集まっているのかは定かでありませんが、一兆円集まっていたとしましょう。

この事実に対する義援金的な考え方はたぶん「あと24兆円足らない」という考え方。まさに「死んだ子の年を数えている」

たぶん義援金全部合わせても一兆円はいっていないと思う。もしいっていたらニュースになっているだろうし。これだけの被害を目にし衝撃を受けても到達できないのだから、25兆円なんてどれだけ遠いか…

だから、その圧倒的な大きさに押しつぶされて絶望したり、立ち止まってネガティブ思考に取りつかれて「頑張ろう、頑張ろう」という思いだけが空回りして、やがて心を病んでしまうような、そういう負のサイクルをもたらしてしまうように僕には見えてしまう。

しかし、支援型寄付のプロジェクトに集っている人たちはたぶん違う。「死んだ子の年を数える」事をやめている。もうやめた、そう宣言している、おそらく。実際に話をしたわけではないから本当はどうなのかはわかりません。しかし、そんなふうに見える。

視線は「これからどれ位創っていこうか」という未来に向いている。これから僕らがどのくらい創れるか? を自分自身に問うている。そして、普通に頑張っただけでは到達できそうにない高い目標を掲げている。

たとえば、三陸復興牡蠣プロジェクトは目標に100億を掲げている。100万人から一万円を集めるということだ。100万部売れる本がどれ位あり、100万枚売れるCDがどれくらいあるかを考えれば、目標の高さが伺える。

個人的な感想として、この目標は絶妙な目標設定だと感じる。普通の努力では無理だが、全力で努力し続ければもしかしたら届くかもしれないと思わせる絶妙な設定。関係者が絶望せず、自然にヤル気が回りそうな、遠くにはあるものの見えなくはなさそうな、そんな設定。

考えれば考えるほど面白い設定。そして、考えれば考えるほど切ない設定でもある。おそらく、そうするしか方法がないから。国も県も動きは遅いだろうから。もしかしたら動いてすらいないのかもしれない。

自分たちで何とかしなければならない状態に否応なくおかれてしまった。阪神大震災も甚大な被害ではあったが、残るものがそれなりにあった(と思う)。しかし、今回はそれがない。本当に何もない。

残ったものといえばがれき位か。それに追い打ちをかけるかのような、政府の対応、東電の対応、etc... そんな真っ暗闇から搾り出された高い目標。そこまで達するのにどれほどの葛藤があっただろうか? 少し考えただけでも胸が痛む。

しかし、そんな葛藤を感じさせない気持の良い割り切りがそこにはある。

  「もう過去は振り返らない」「死んだ子の年を数える事はもうやめた」
  「これからどれだけのものが創り出せるのかだけを考える」

そんなメッセージ、叫びが聞こえてくるかの様。どれほどの苦悩があったのだろう。直接被害を受けていない僕には想像もつかない。

誤解を恐れず言えば目標は高すぎるうえ、宣言地点から目標までの中身は「空っぽ」である。しかし「空っぽの中身をこれから詰める、何年かかるかわからないが必ず詰める」とも言っている。

さらに、誤解を恐れず言えば「金を貸してくれ」と言っている。しかし、そんなことが霞んでしまうくらい強いメッセージがそれに続く。

  「必ず返す」 「必ず ”働いて” 返す」

そんな強いメッセージ、約束。

  「あぁ、これなんだな。僕が欲しかったものは」

そう思った。自分が「寄付」という行為で欲しかったものが何なのか、がようやく理解できた。寄付という行為に通常見返りは求めない。僕もそう。マイクとかを向けられて聞かれたら確実にそう答えると思う、この一般的に無難と思われる答えを。

でも、このメッセージに触れてわかった。やっぱり何かを欲していたんだな、と。こういう「元気」「やる気」を買いたかったのだ、と。

ある種の開き直りが生んだ苦肉の策だと思う。ただ、僕にとってこの開き直りはとても清々しいものだった。

中身はこれから詰める。何年かかるかはわからない。
しかし必ず宣言通りに実現してみせる。
確証はなにもない。しかし、必ず返す。必ず ”働いて” 返す

そんな強烈なメッセージ。勝手な僕個人の思い込みによる勘違いかもしれない。でも、本当に情熱だけで全てを達成してしまうのではないか? そんな見ているだけでこっちまで元気になってしまいそうなあふれ出る情熱を感じた。この熱にふれようやく覚悟が決まった。やる気になる切っ掛けはいろいろ有るのですが、最終的に腹がきまったのはこれらプロジェクトが発しているように見える熱に当てられたから。

「かんばれ」「俺も頑張る」「俺は頑張った(あなたは?)」「そこまでやったか! ちきしょー、俺のこれからをみてろ」」そういうやる気があふれ出るスパイラルを生み出せそうな関係性を築ける可能性をこれらプロジェクトに感じたから。

やる気は常に減っていくものですから、増幅しあえる関係とか、何かしらの渦の中にはまり込まない限りなくなってしまうものだと思うのです。しかし、そんな関係性さえ作れれば「やる気」がなくなることはなくなる。そうなればすごい事です。そんな関係性が築けそうな可能性を感じたので、頑張れる理由がみつかり、腹が座りました。

いままで一番欲しかった「やる気」が自然と湧き出てくる何か、がようやく見つかりそうだったから。

来週に続きます。