激動の一週間だった件

先週は俺的に激動の一週間だった為「まじ、オブジェクト指向言語とかどうでもいいから!」てな感じでチョー忙しかったので、先週の続きをまだ書いていません orz

何が激動だったかについてはどこぞのSNSで、本職のポエム業をそのうち再開するのでそこらへんを参考にしていただくとありがたい。

まあ、先週の続きに関しては、途中まで書いてはいるので今日中に書き切ることは可能ですが、話をある程度書かないと前後関係を入れ替えないと説明の流れがおかしくなる場合などに対応できないので、まだ公開できる状態ではないのです。

大した数の人間が見ているわけではないので問題ないといえば問題ないんですが、一部のマニアさんは期待していてくれてるかもしれないので、代わりに昨日参加したイベントに関してちょっと触れたいと思います。

昨日はSocialGameJamという2日間でソーシャルゲームを作る! という男前イベントに参加したのですが、作業途中でFacebookAPIに振り回されることに飽きてしまったため、プログラミングをせずにツイッターポエムを書き続けるという荒業に出たんです。

結構おもしろつぶやきをしたつもりだったのですが、だれもTogetterしてくれなかったので自分でまとめるという、切なさと愛しさと心強さを忘れない為、自分でTogetter化しました。以下のURLにイベント中で荒ぶっている僕のアホアホコメントが見れます。

ある参加者によるポエム的視点から紡いだSocialGameJam物語

ということで、来週は次の記事を公開できると思います。今週はすいませんでした。

こんなアホアホBLOGではありますが、これからもよろしくお願いいたします。

オブジェクト指向言語が流行した必然性について考える(2)

構造化言語ではできなくて、オブジェクト指向言語で出来るようになったこととは何か? 結論から言ってしまうと、構造化言語では

主語が書けなかった

いや、そんなことはないだろう。構造体とか主語っぽいじゃない? と思われるかもしれません。(構造体何それ?という人は適当にググッて下さい。実は僕もよく知りませんw) 確かに構造体は主語にできそうですが、主語になるにはある能力が足りません。

ではある能力とは何か?

ちょっとWikipediaの「主語」から少し引用してみましょう

アリストテレス以来の伝統的な論理学における「述語」(katēgoroumenon) の対概念である hypokeimenon に由来し、それが中世以降のヨーロッパ伝統文法にとりいれられて成立した概念である。その後のデカルト言語学から生成文法などに至る近現代の言語学にも受け継がれ...

… … なんか、心を病みそうw これはわけわからないですね。ということで、主語とは何か? を独自に分析していきましょう。とりあえず、幾つか文を並べてみて考察して行きましょう。

リトルリーグ選手が打つ
大リーガーが打つ
女子高生選手が打つ

上記の文を読んでみてどんな場面を想像しましたか? 大体の人はボールをバットで打っているシーンを想像したと思います。しかしそれぞれに違うシーンを思い浮かべたと思います。

女子高生選手といわれて、胸毛ボーン! なアメリカ人ギャランドゥを想像する人は一部マニア以外にはいないでしょうが、大リーガーといわれてそれを想像する人は結構いるはずです。セリフは全部「HAHAHA Oh Yeah!」みたいなw 

まあ、女子高生選手といわれれば 片岡 安祐美 さんとかを思い浮かべるのが普通でしょうか。今は女子高生とかじゃないけど、イメージ的にはきっとそんな感じかと

ボールの飛距離はどうでしょうか? リトルリーグ選手が東京ドーム柵越え連発! とかは想像しないですよね? 大リーガーなら自然な感じですけど。

たぶんそれぞれの文を読んで同じ光景を想像した人はいないと思います。振り方、振るスピード、打ち返すボールの飛距離… 似たようなもんだけどそれぞれ若干違う。なにか不思議な違い。面白いですよね。

さて、ではこの文はどうでしょうか?

野球選手が打つ

どんなシーンを想像しましたか? うまく想像できないですよね? あえて表現すれば「なにかしらのユニフォームを着てバッターボックスに立っているだれか?」でしょうか? よくわかんないですよね。

では、この文から「リトルリーグ選手が打つ、大リーガーが打つ、女子高生選手が打つ」
シーンを想像した場合、それは間違っているでしょうか?

どれも、間違っていないですよね?

「女子高生選手が打つ」で、ギャランドゥかつアヘ顔ダブルピースなアメリカンを想像するのは(いろいろな意味で)間違っているのに、です。なにか不思議ですよね。

こういう具体的な要素を少し抜いていろいろな含みをもたせるような文は一般的に「抽象度が高い文」なんて言うらしいですが、抽象度? って感じですよね。そんな時にはWikipedia…(以下略)

どうせ難しく書いてあることが確定しているので、簡単に行きましょう。抽象の反対を考えるとわかりやすいので、反対を考えましょう。抽象の反対は「具象」ですよね。具象? って感じですか? ではWiki…(略)

ま、とりあえず、具象化した文を示しましょう。

イチローが打つ

この文を読んで、草野球場を思い浮かべる人は少ないだろうし、ホームランを連打する姿を想像する人も少ないでしょう。おそらくは大リーグの球場で鈴木イチローがユンケル振っている姿を想像する人がほとんどだと思います…

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、大体の人のイメージは、かなり狭い一定の範囲に固まっているはずです。文脈からし小沢一郎とか水木一郎とか水樹奈々様とかを思い浮かべる人はたぶんいないはず。

そんな感じにイメージする幅が狭まるのは、主語が固有名詞の「鈴木イチロー」になったからですね。

鈴木イチローは一人ですが、野球選手となると数万はいるでしょう。草野球選手を含めれば数十万はいるはず。そんなふうに考えれば、大体はその言葉が含まれる範囲が広くなれば「抽象度」が高くなり狭まれば「具象度」が高くなる(抽象度が低くなる)と考えて問題ないでしょう。順番に並べると

    ← 抽象化      具象化 →         
    ← 多い       少ない →         
野球選手 - プロ野球選手 - 大リーガー - 鈴木イチロー

な感じですかね。さて今度は少し趣向を変えた文で行きましょう。

田代まさ◯が打つ
ノ◯ピーも打つ

えっ! それはあれですか! 打つものは白いうさぎ的なものですか! 寂しすぎて死んじゃう感じですか! 愛は死にますか! 山は死にますか! さだ(まさし)もどうですか! 

… どうでもいいですねw 

今度は、打つ対象が変わりましたね。片栗粉的なアレです。目がうさぎ的(真っ赤に)なる感じのハイソでブルジョアな強力粉的なものの事ですね、なにがどう強力なのかはよく知りませんが。

今度の文は「目的語はボール」という暗黙の前提が崩れましたね。不思議です。顕微鏡で見れば白いボールに見えなくも無い、ということは内緒ですw プログラム的に言えばデフォルト値が変わった、と表現できるでしょうか。

さてさて、文を並べての考察はこれくらいにしましょう。これら文には共通点があります。

使用している述語が「打つ」

という部分ですね。しかしおなじ動詞を使用しているのにイメージする場面はそれぞれ違います。なぜでしょう? 簡単ですね。主語が違うから、ですね。

こんな風に改めて考えると、不思議だと思いませんか? 主語が変わると述語に使用している動詞の意味が変わるんです。もっと正確に言えば、主語が具体化(具象化)すれば、動詞の意味も具体化(具象化)するわけです。逆に主語が「野球選手」のように抽象化すると、動詞の意味ももやっとする(抽象化)。主語と述語の間には明確な連動性があるわけです。

「打つ」という動詞単独だともやもや(抽象度)は最大化し「何かと何かをぶつける」イメージとしか言えなくなる。それが「野球選手が」と主語がつくと「何かと何か」という曖昧な部分が「バットとボール」で埋まる。確実にそれに確定しているわけではないが、ほとんどの人はそれを想像する。

ほとんどの主語は名詞で、ほとんどの述語は動詞です(当社比) 結構極端な断定ですが、間違ってはいないはず。しかし「名詞は主語である」と言われると違和感がある。それは名詞に何かの能力を足したものが「主語」になるからなのでしょう(当社分析)。

その能力とは一体何か? という問いがこの記事の主題です。

その答えは僕の解釈だと、名詞が主語になるために必要な能力とは「動詞の意味を変える能力」つまり主語に求められる能力とは

動詞の意味をコントロール出来る事

別の言い方をすれば”動詞の意味を決定する能力” 構造化言語ではこれが出来なかった(極論)。名詞的役割の構造体や動詞的役割の関数はあったが関係性は対等だったので連動性は薄かった。しかしオブジェクト指向言語では、これが出来るようになった。その方法は簡単に言ってしまえば

動詞を名詞の管理下に置く

という名詞と動詞の間に主従関係の様な関係性を強制することで、動詞の意味が主語(名詞)に連動することを可能にした(極論)。

ここらへん割と極論で押し切っていますが、これら記事はオブジェクト指向を説明する上で避けて通れないややこしい概念をなるべく抜いてどこまでオブジェクト指向の本質にせまれるか? の思考実験を含んでいるので、ところどころ変な感じがすると思います。まあ、オブジェクト指向を理解している人には、この話は「ポリモーフィズム(多態性)の話につなげるつもりだな」ということがわかると思いますが。

ただ、そういう人にとっては「ポリモーフィズムを説明する例題に野球選手ってw そこは伝統に従い犬猫を使え」と思うかもしれません。しかも「野球の文脈で田代神出てきたw バット振るとか関係ないじゃんw」と思うかもしれません。

でも神はバットを振っているんです。

えっ? 意味がわかんないって?

だって、彼はアレを打つことで



人生を棒に振ったじゃないですか …



… … …
… …

うん、そうなんだ。 ただ、ただ、このオチを言いたかっただけなんだ。

だから野球選手なんだ。わかってほしい、この壮大にすべった感をこよなく愛する人がいることを。ただこのオチに導きたいがためだけにオブジェクト指向言語が流行した必然性について考える」などという大上段から振りかぶった前フリを書き始めたということを。

今僕に蔑みの目を向けている君にもきっとくるだろう、この甘酸っぱい羞恥プレイに目覚める時が! さあ嗤うが良い! 蔑むが良い! 僕は君を待っている、賽の河原の向こう岸で…

ということで、どうでもいいオチを開陳した所で終わりますw 続きはまた来週。

オブジェクト指向言語が流行した必然性について考える(1)

さて、4月からこのBLOGを書いていますが、プログラマーズログと銘打っているのにこの記事が初めての技術系の記事ですw

なぜ唐突に技術系の記事を書き始めたのかというと、ダジャレクラウドの使用技術が JAX-RS(RestEasy) Google App Engine/Java Slim3 Twitter4J jQuery という技術を使っているので、これら周辺の技術を身につけたいIT技術者も結構いるんじゃないかと考え、ダジャレクラウドの実装で得た知識をベースにした実践的な勉強会を開こうかと企画しているからです。

とりあえずは、技術者向けでなく自分でWebサービスを立ち上げたいが、フロントエンドはともかくとしてバックエンドがよくわからないWebデザイナーイラストレータだけどWeb系の知識をつけたい人のようなグラフィック系のスキルを持った人を対象に基礎的な講座を開こうかと思っています。グラフィック系の人をうまく巻き込みたいので。そこでノウハウを貯めて、IT技術者向けをはじめようかと思っています。

が、最近試しに開いたうちわで勉強会の経験からすれば、だいぶハードルが高いかんじなのでJavaScriptフォーカスの勉強会からかな、と考えなおしていたりw 現在絶賛悩み中。

で、そこらへんを教えるにあたって避けられないと個人的に思っていることが「オブジェクト指向とはなんぞや?」という古くからの難題。これを避けて説明すると、たぶんもやっとしたままフワフワ理解して、わかったのかわからないのかがわからないまま学習が進んで行く気がするのです。なので、僕なりにこの難題に取り組んで見ようかと思います。まあ、きっと玉砕に終わるでしょうけど(T_T)

初心者向けの書籍を最近読んでいないので、最近の書籍ではうまく説明されているのかもしれませんが、そんな話を聞いたことがないので、たぶん今でもオブジェクト指向に関する説明の始まり方は

「世界は全部オブジェクトで出来ているんじゃぁぁーーー」
という「オブジェクト至高教への洗脳」から始まっているものと推察しますw テンション高めの説明から入るのでドン引きする人多数な感じがかなりアレですね。オブジェクト指向の説明は独特な説明から入るので宗教っぽいんですよね、若干。宗教という表現をさけるなら思想、哲学といえば柔らかいでしょうか。

僕がその手の初心者向け書籍を読んだ時に思った事は「なぜオブジェクト指向言語(Java)で書く必要があるのか? 構造化言語(C言語等)ではダメなのか? 何が違い、何がメリットなのか?」にうまく答えられていない、という疑問でした。オブジェクト指向の世界観の説明で手一杯でそこらへんをうまく説明できていない気がしました。

構造化言語(C言語等)ではできなくて、オブジェクト指向言語(JavaC++等)で出来るようになったものとは何か?

結局ここらへんが「オブジェクト指向言語が流行した必然性」につながっているのだと思うのです。ところがオブジェクト指向言語が生まれた経緯の説明は、僕の偏見が入った見方だとは思うのですが

なんとなく物好きが集まってSmalltalkというイケてる言語を生み出して、結構イケてたのでなんとなく技術的影響力を持ち、現在のプログラム技術にはなんとなく必要不可欠のものになりました。

という説明が多いように見受けられます(超意訳) まあもっと理論的な始まりが有るんですが、一般的なイメージはこんな感じな気がします。僕はオブジェクト指向言語が流行したのは必然だと思っているので、このような説明だとそこらへんの必然性がぼやけてしまい理解を妨げているのではないか? と思っています。その為、そこらへんの説明から入ったら、もしかしたらいままでの説明より若干分り易くなるんじゃないかと考え、まず始めにオブジェクト指向言語が流行する歴史的必然性への考察からの説明を試みたいと思っています。

まずその説明に入る前に、話の枕としてすこし変わった話をしたいと思います。中学校の英文法の時間(今も行われているのかどうかは不明)で、日本語と英語では

英語  : S(主語) V(述語)  O(目的語)
日本語 : S(主語) O(目的語) V(述語)

S:Subject(主語)V:Verb(動詞)O:Object(目的語)
C:Complement(補語)M:Modifier(修飾語)

という語順の違いがある、という事を教えられたと思います。英語は日本語と違って V(述語)の位置が前にきているわけですね。この語順の世界的な割合は言語数での比率だと

日本語型(SOV) 45% アラビア語型(VSO) 18% 
英語型(SVO)はWikipediaに記載がないので詳細は不明ですが30%位?

【参考】 Wikipedia SOV型 SOV言語はどのくらい存在するの?

のようです。WikipediaBiglobeの情報は若干違いますが、日本語型(SOV)が一番多い事は共通しているようです。しかし使用言語と人口比率の関係をみると圧倒的に英語型(SVO)の方が使用人口が多いらしいです。英語と中国語がこの形式だからですかね。

しかし面白いことを最近知りました。英語型(SVO)の言語の人に言葉を使用せずジェスチャーのみでコミュニケーションする、という実験をすると 日本語型(SOV) の語順で説明するようになるらしいです。【参考】「英語式語順は、自然な思考の順番に反する」研究結果

面白いですよね。つまり人間の自然なコミニュケーションの形は日本語型(SOV)である可能性が有るわけです。ということは、英語型(SVO)の語順は不自然である可能性が有るわけです。

なぜ V(述語)の位置が前に来たのか?

ここらへんに、不自然さを生み出した原因があると思うんです。そんなことを考えていた時に、複数の言語を喋れる人に上記のジェスチャーだと語順が変わる、という話をしたら、

それはたぶん意思疎通がとりあえず出来るようになるからだろうね。
SVでとりあえず文の大枠の意味は確定するから

とおっしゃっていました。なるほど! とその時思ったわけです。英文法の時間で文をする構成パターンとして

SV SVO SVOC etc..

というようなパターンがある、と習ったと思います。Cは補語ですね。参考 : 英文法の文型

つまり文の最小構成は「SV」 SVさえ確定すれば文の意味は、ほぼ決定する訳です。つまり読む人と意思疎通がとりあえず完了する。これに気がついて「英語型(SVO)の話者の比率がなぜ多いのか?」の一端が理解できました。英語も中国語もSVO型、ちなみにアラビア語はVSO。

どれも大陸国で異民族交流(平和的、侵略的な場合も含む)が避けられない環境から生まれた言語と言えます。まあ、英語はイギリスなので島国ですが、ノルマン・コンクエストとかフランス語の影響とかを考慮すると(参考URL) 異文化交流の影響でSVO化したとみなして良い気がします。異文化交流が絶え間なく続くのでネイティブ話者でない人と会話せざるを得ないわけです。そういう人達と会話することを想像してみてください。

日本語型(SOV)でそのまま会話しようとすると、O(目的語)の部分は長かったり短かったりするので、ネイティブでない聞き手は

O(目的語) と V(述語) の別れ目が判断出来きずに意思疎通できない

あるいは出来ずらいはずです。そういう相手に対して普通に話してみて伝わらなかった時、次に同じ内容を伝えようとした場合、省略しても問題ない部分を省略して、大事な部分を残して話を再構成すると思います。その再構成方法は殆どの場合、おそらく

O(目的語)を抜いて S(主語)V(述語)だけで再構成

するのではないでしょうか? そうやって意思の大枠をとりあえず伝えられたら、その後により意思、意味を詳細化、確実化するために O や C を付け足すようにコミニュケーションするのではないでしょうか? アラビア語はVSOのようなので多少状況が違いますが、SVでとりあえず意思伝達を仮確定する、という仮説は満たせそうです。

つまりネイティブ話者でない人達との会話が常態化している環境だと、SVでとりあえず意思疎通を仮確定し、OCで詳細化、確実化という意思疎通手順を取らざるを得なくなって、語順としては不自然なSVO型が定着したのでは無いか? と思ったわけです。

そう考えるとこの英語型(SVO)は、言語が国際化(異文化と活発な交流)する過程で変化せざるをえない形なのかもしれません。日本のように縄文時代のようなのほほんと過ごしていた時代から異民族交流がほぼなかった環境だったから、自然な並び順であるSOVのままで変化が起こらず現代まで来ることができたのだと思います。

しかしこれからはどうでしょうか? 異文化交流も増えるだろうから日本語も日本語ネイティブの人と会話せざるを得ない状況が常態化すれば、もしかしたら語順の変化が起こるかもしれませんねw

さて、なんでこんな枕話をしたのかというと、

・ネイティブ話者でない人と意思疎通するにはSVを先に明示するのが合理的
・意思疎通において SV は必須だが OやCは省略可能

ということを強調したかったからです。この事をオブジェクト指向言語的に記述してみると「S.V(O,C,M)」もうちょっとプログラムっぽく書くと

subject.verb(Object o,Complement c,Modifier m)

の様な感じでしょうか? ここでのカッコ() 表記は、メソッド(関数)の呼び出しを意味するカッコ表記ですが、このカッコの意味を「省略可能である」「補足情報である」という意味でとらえ直すとなかなか興味深い表記に見えてきませんか?

ここらへんに「オブジェクト指向言語が流行した必然性を考える」上で、キーポイントがあるのではないかと思ってこんな枕話をしてみました。

長くなったので、ここらへんで一旦終わりにします。つづきは来週。

義援金に対する3つの違和感を解消してくれたもの (4)

「小さな成功体験」をどう積み上げ、どうつなげ、どうドライブしていくか。ここらへんが、各種ソフトウェア開発プロセスが取り組んでいる課題と似ていて興味を惹かれています。

考えることをシンプルにする。ゴールを明確にする。ソフトウェア開発で考えていた問題意識が復興支援で必要なことと重なってくる。自分の思索範囲が狭いということなんだろうけど、それだけではないと思う。

心を折られやすい開発現場において人の集団のモチベーションを維持、発展させる方法とは? という問いと、心が沈みやすい復興過程でやる気を上げる方法とは? という問いが似ているからなのかもしれません。

だから、ソフトウェア開発のノウハウが結構生きてくるんじゃないかと最近考えたりしています。プロジェクトファシリテーションとか、特に。プロジェクトファシリテーションについてはあまり詳しくはないのですが、ソフトウェア開発でのプロマネノウハウは、一般的なプロマネに結構生かせるのかもしれない? という問いへの模索を感じます。ここらへんについてはまた別に記事を起こそうと思っています。

集める側の小さな成功とは何か? を最近よく考えます。義援金の場合だと目標が金額でしか建てられないと思うのですが、こちらのケースだと「仕事を創造する」事がテーマなので少額目標でもいいわけです。

雇用の創出をめざしているのに少額ってどうなの? という部分もありますが一万円の仕事を30件作れば一人分くらいの仕事の創出につながるので案外馬鹿にできないことだと思っています。それに大きな仕事を創出するって個人、または少数での活動としては荷が重いですしね。

目標を高く持つことは大切ですが、そこへ至るまでの道のりに多くの休憩ポイントというかふりかえりポイントを持つことが重要だと考えているので、短期的な目標を低く立てやすいことに結構魅力を感じているわけです。

だから、ダジャレクラウドの小さな目標として「ネット上だけで一万円を稼ぐ」をとりあえずのゴールとして設定した企画を進めようと考えています。まだ草案状態なので、すすめるかどうかは未定なのですが、次回のミーティング時に説明して合意を得たいと思っています。

そこらへんから小さな渦を作り、仮説、実行、実証、ふりかえり、等アジャイルイテレーションの方法論とかPDACサイクルとかを援用してうまくその渦を広げられたら面白いんじゃないかと思っています。僕自身の興味領域と学習領域と重なるので楽しめそうですし。

受け取る側の小さな成功とは何か? については、今のところ想像上のものでしかないですから実際面識を持って議論を深めていくしかないと思っています。次期Hack4jpで各会場に参加できるような日程になっていたら、各地を回って親交を深めつつここらへんについて思索を深めていけたらと思っています。

まとめ的なものになりますが、ダジャレクラウドの方向性としては「楽しめる支援」「面白い支援」の形を模索したいと思っています。ここでいう面白いは interest の方、つまり興味深い、という意味の方。ダジャレなんていう日本で一二を争う下らないツールをつかって復興支援しようなんてアプローチは、意外性とか「おいこいつらダジャレ使って復興支援しようとしてるよ」みたいなバカバカしさとかの混在具合が興味深くて面白いし、好きです。どんな形になるのかはまだよくわかっていないんですけど、やりがいは有ると思うし単純に楽しそうですねw そんな方向性で地味に頑張っていこうかと思っています。

とりあえず、hack4jp関連に関してはまだ色々書きたいことはあるのですが、ここらへんでhack4jp絡みの記事は一旦終了します。

次の記事はこのBLOG初めての技術記事ですw プログラマーズログと銘打っているのに次が初めての技術系の記事w まあそんなもんです、世の中。

タイトルは「オブジェクト指向言語が生まれた必然性を考える」というお硬い感じの記事になる予定です。結構推敲する必要があるので1-2週間くらい休むかもしれません。

ということでまた次回。

義援金に対する3つの違和感を解消してくれたもの (3)

テキストの内容とタイトルがずれてきたのでタイトル変えました。



「一口オーナー制度」が興味深いと思った3点目

どこに行ったかわからないお金、想像できない笑顔
→ 小さな成功体験の循環、想像できる笑顔

たとえば今集まっている義援金と同額をこれから集められたとします。これって集めること自体が相当きつい。おそらく不可能だと思います。しかしその難題をクリアできたと仮定します。

その場合、被災地の人が元気になる姿を想像できますか?

… たぶん、無理ですよね。金額は適当ですが、配られるお金が200万から400万へ変えられたとしてもたぶん気持ちは殆ど変わらないと思います。仮に一億ずつ配られることが出来るようになったとします。今度は周囲の嫉妬等のべつの問題が発生すると思います。努力を重ねた結果の笑顔を想像できないって結構辛いと思います。しかも、ものすごい努力した後すら想像できないわけですし。

義援金はどこまで集めればいいのかの底が見えない。笑顔も見えない。そもそもちゃんと届いているのかすら見えない。そんな進めば進むほど泥沼化するような不安が募る、そんなイメージが僕の中であるので、義援金を集めるというモチベーションがあまり湧いてこなかったんです。でも、まあないよりあったほうがましだろうから、活動するなら義援金が集まるようなことに貢献したい、とは思っていました。

しかし「一口オーナ制度」を知り考え続けた結果、いくら積んだ(積めた)所で大して変わりはしない事をはっきり理解した。義援金を受け取る時、失ったものと得たものをどうしても比較してしまう、そんな気がします。むしろその事を際立たせてしまう可能性があることを考えると逆効果ですら有るのかもしれません。

こういう言い方は語弊があるかもしれません。何度か言っていますが義援金を否定しているわけではないのです。ただ、少ないお金で大きな被害に対応するには、費用対効果が重要になってくると思うので、義援金的な平等な分配の方法は効率が悪い気がして単純にもったいない気がするのです。

では、なにに投じるべきなのか? この問いに対する答えは様々でしょうが、僕は「やる気」に投じるべきだと思います。まさに「やる気を買う」訳です。

まあ、微妙にダジャレな感じなのは気のせいですw なんていうか義援金には波及効果をイメージできないんです。投じて、流れて、消えていく。一回こっきり。しかし、この方法だと色々なことに波及していくイメージを描ける予感がしたのです。

やる気って減りやすく増えにくいものだと思います。だから放っておくとゼロになる。しかし、もうひとつの特徴として「他人に影響されやすい」という特徴。自然減少分より多く増やそうと思ったら、この「影響されやすさ」を利用するしかないと思うんです。

「被災地に笑顔を届ける」このことを自分なりに考えていた所「一口オーナ制度」を知り、これらプロジェクトの人の発する熱みたいなものを利用することで、周りの人をやる気の渦に巻き込めそうな可能性を感じたのです。

無論そんな簡単には行かないでしょう。難問だらけだと思います。でも義援金について考えることで迷い込む暗闇みたいなものの逆、少しづつ問題が解決されていき明るくなっていけそうななにか、を感じたのです。まず、すごいと思ったことが、一番難しい心の問題がある程度クリアされている、という所。

心の問題で一番難しいと思うことはマイナスの状態を0に持っていくこと。簡単に言ってしまえば、うつ状態うつ状態で無くすこと。これって難しい。おそらく医者レベルでないと無理だと思う。ここってどうあがいても外部の人間が関われない(にくい)部分だから、自己解決されていると言う所がすごいと思った。よくぞそこまで自分の気持を持ち上げてくれました、と素直に思った。無論、完全解決しているわけではないでしょう。ふとした事で入り込む不安をかき消すために搾り出したやる気なのだと思う。不安をかき消すための空元気なのかもしれない。

でも、その空元気を本物の元気へ変えられそうな循環をイメージできた。「俺たちは未来をつくる」というメッセージに対して「頑張って」と返答することは誰にでもできる。100人いたら100人がそう答えると思う。でも「俺たちは未来をつくるから、1万円投資して欲しい」というメッセージに対して投資する人がどれくらいいるか… たぶん、だいぶ減ると思います。でも、それがもし10万円でも集められた場合、10人ははっきりと意思表明したことを伝えることが出来る。

  「私はあなたが創りだすであろう未来を信じる」

そういう強いメッセージ。簡単に出すことが難しいお金だからこそ、そういうメッセージをお金に載せることが出来る。そういう物語が乗ったお金を受け取った場合自分ならどう思うか? たぶん、やる気がでる。自然と湧き出てきて抑えられない感じのやる気。どうやって作って、どうやって返したら喜んでもらえるだろうか? とかを考えることで頭がいっぱいになると思う。余計な感情が入り込まなくなる。この状態が幸福なことなのかどうかはわかりません。ただ、少なくても僕には幸福な状態のように思える。きちんと納得、満足してもらえる製品作りに意識が集中する。

きちんと作って、届ける。明確なゴール設定。しかもその商品には「私たちはあなた達が信じてくれた未来を形にする為、本当に頑張った」という言葉だけでは伝わらない「本当に頑張った証拠」を載せることが出来る。

「俺を信じてくれ」とか「一生懸命頑張る」という人は結構いる。でも本当に信頼するに値する人、一生懸命頑張れる人は少ない。だからこそ、そういう人に出会えた場合は感動する。だからこそ、本当に頑張った結果を商品という確かな形にして届けること事は、金額以上の満足を届けることになるのではないかと思うんです。そこらへんに単純にビジネスとしてみた場合の可能性を感じました。

まあ、だいぶ変な解釈であることは認めます。ただビジネスの本質を「価値の交換」と考えた場合、様々なところに交換要素があるような気がするので活路、突破口を感じるわけです。また人の集団をドライブする上でキーになる「小さな成功体験」をそこかしこに感じるので、うまく発展・拡大させられそうなものも感じています。

長くなったので、ここらへんはまた来週。

義援金に対する3つの違和感を解消してくれたもの (2)

昨日Scala会議というものが行われたのですが、そこでいつものグダグダプレゼン(LT)してきました orz 絶賛修行中ですが、この感じだといつ修行が終わることやらw 唯一の救いは Hack for japan の宣伝でちょっぴり受けたことでしたw このプレゼンでの企画に関しては、DevLoveの人と現在交渉していますが 時期的には次回のHack for japan が終わったあと煮詰めることになるので11月以降になると思いますのでよろしくお願い致します。では先週の続きから。



「一口オーナー制度」が興味深いと思った2点目

恵んだ人 → 恵まれた人というある種の上下関係から
売れる(かもしれない)人  ↔ 買える人という対等な関係へ

という関係性の変化。この変化が結構気持ちいい。寄付金募集にまつわる憐れみドリブンな感じが個人的には余り好きじゃなくて、言葉にならない違和感があったのですがそれがはっきりした。

最近知ったRelief2.0のメッセージとかキャッシュフォーワークの考え方でも強調される

「医者が被災したからと言って医者でなくなったわけではない」被災後も被災者になったわけではなく医者のままなのだから、医者としての尊厳を保ちつつ、自立支援方法を模索すべき

というような主張。ここらへんがずっと引っかかっていたので、その人の職能や誇りを大切にする形の支援がしたいと思っていたのですが、その方法論が被災者側から提示されたので結構心に刺さりました。

日本人が持つ「関係性を対等に保ちたいという衝動」がどこから来るのかは目下研究中ですが、そういう衝動を持っていると思います。そういう観点からすると上から恵んでやる感がある義援金という方法は少し違和感が残る気がします。

憐れみを強調されることで連鎖して湧きでて来るちょっとした見下し感への自己嫌悪みたいなものへの不快感、とでも言えばよいでしょうか? まあ僕の邪推かもしれませんが、少なくても僕はそんなことを感じてしまうことがあり、心に引っかかっていました。

そういうのが綺麗に吹き飛んでいる。なんかいいですよね。「おれたちは、やるぞ! とにかくやるんだ!」みたいな情熱が先走っている状態。こっちも元気をもらえる感じ。

  売り出すものは「やる気」「自分たちがこれから創りだすであろう未来」

これって凄いなって。そう感じるのは僕だけなのかもしれないけど、今僕が欲しいものがちゃんと売りだされている、その事にかなり心を動かされたんです。

変な表現ですが商売が成立しているわけです。欲しいものと売りたいものがうまくマッチしている。価値交換が成立している。これって継続性が高いってことだと思うんです。

大げさな表現すぎる、と言われればそれまでですがここらへんが義援金では満たされない「価値」「満足」を提供している部分だと思うのでこの周辺に突破口があるんじゃないかと思っています。だから、まあ長文を書きながら自分の考えを整理しているわけでしてw

経済的合理性がない仕組みとか、善人を前提にしすぎている仕組とかはどこかで破綻する、と思っています。共産主義とか社会主義とか。少ないお金で大きな被害に対応する必要があるわけですから、投じたお金の効果を最大化する必要があると思うのです。そうなると、経済的合理性が最も重要になってきます。

お金の問題、これが一番必要で、一番シビアで、一番口に出しにくい問題。阪神大震災の時には聞かれなかった。あったのかもしれないけど僕は聞かなかった。あまり真剣に考えていなかっただけかもしれないけど、そういう所にフォーカスが当たっているとは思えなかった。残ったものがそれなりにあったし、首都圏近く(語弊があるが)ということも大きかったからかもしれない。それでも日が経つに連れお金の問題で自殺を選んだ人がいたと聞きました。

お金の問題、給料の問題といってもいいし、雇用の問題といってもいい。数ある支援方法のなかでここらへんにフォーカスを当てた「一口オーナ制度」「キャッシュフォーワーク」等のプロジェクトに惹かれるのは、とりあえず仕事があればそれに打ち込めさえすれば余計なことを考えなくてよくなるであろうから。心の隙間がなくなる。だから、どんな形であれ一応心が安定する。そんなことにつながる気がするからです。そこに到達する為には仕事の創出。その為にはお金の循環。

  お金を動かすには心を動かす必要がある

そんなことを最近考えています。だから、自分がなぜ心を動かされたのか? についての言語化を試みているわけです。うまく言語化できていないのが現状ですが、そんな中途半端な思考過程を公開しているのも、僕なりに「学習過程のオープンソース化」を試みているからです。

まあ、それにしたってなげーよw っていう話ではありますw はやくプログラム書けやボケーー!! そんな幻聴が聞こえてきます。えっ? 幻聴じゃない? すいません。

  明日から本気出す !!w

ということで、唐突ですが来週に続きますw

義援金に対する3つの違和感を解消してくれたもの (1)

前述のように Hack for japan のスタッフの活動を見ていただけでも、十分やる気は出たんですが、本気で Hack for japan の活動(ダジャレクラウド等)に取り組んでみようと思ったのは「一口オーナー制度」を知ってから。

それを考え続けたことで様々な疑問点が氷解し、自分のやりたい事、3.11以降考え続けていた事、Hack for japan で何をやるべきか?等が急速に繋がりだしたから。

「一口オーナー制度」は僕の義援金等に対して感じていた漠然とした3つの違和感を見事に解消してくれました。

一つ目は「一口オーナー制度」という形式の興味深さは何か? を考え続けてようやくわかった事。それは

  義援金の視線の向きは後ろ向き

ということ。別の言い方をすれば過去へ向いている。わかりやすく言えば「死んだ子の年を数える」行為。失ったものを補填する目的の金といえばいいだろうか。たとえば、現在損失額合計の試算として最大25兆円と算出されているそうです。義援金が現状どの位集まっているのかは定かでありませんが、一兆円集まっていたとしましょう。

この事実に対する義援金的な考え方はたぶん「あと24兆円足らない」という考え方。まさに「死んだ子の年を数えている」

たぶん義援金全部合わせても一兆円はいっていないと思う。もしいっていたらニュースになっているだろうし。これだけの被害を目にし衝撃を受けても到達できないのだから、25兆円なんてどれだけ遠いか…

だから、その圧倒的な大きさに押しつぶされて絶望したり、立ち止まってネガティブ思考に取りつかれて「頑張ろう、頑張ろう」という思いだけが空回りして、やがて心を病んでしまうような、そういう負のサイクルをもたらしてしまうように僕には見えてしまう。

しかし、支援型寄付のプロジェクトに集っている人たちはたぶん違う。「死んだ子の年を数える」事をやめている。もうやめた、そう宣言している、おそらく。実際に話をしたわけではないから本当はどうなのかはわかりません。しかし、そんなふうに見える。

視線は「これからどれ位創っていこうか」という未来に向いている。これから僕らがどのくらい創れるか? を自分自身に問うている。そして、普通に頑張っただけでは到達できそうにない高い目標を掲げている。

たとえば、三陸復興牡蠣プロジェクトは目標に100億を掲げている。100万人から一万円を集めるということだ。100万部売れる本がどれ位あり、100万枚売れるCDがどれくらいあるかを考えれば、目標の高さが伺える。

個人的な感想として、この目標は絶妙な目標設定だと感じる。普通の努力では無理だが、全力で努力し続ければもしかしたら届くかもしれないと思わせる絶妙な設定。関係者が絶望せず、自然にヤル気が回りそうな、遠くにはあるものの見えなくはなさそうな、そんな設定。

考えれば考えるほど面白い設定。そして、考えれば考えるほど切ない設定でもある。おそらく、そうするしか方法がないから。国も県も動きは遅いだろうから。もしかしたら動いてすらいないのかもしれない。

自分たちで何とかしなければならない状態に否応なくおかれてしまった。阪神大震災も甚大な被害ではあったが、残るものがそれなりにあった(と思う)。しかし、今回はそれがない。本当に何もない。

残ったものといえばがれき位か。それに追い打ちをかけるかのような、政府の対応、東電の対応、etc... そんな真っ暗闇から搾り出された高い目標。そこまで達するのにどれほどの葛藤があっただろうか? 少し考えただけでも胸が痛む。

しかし、そんな葛藤を感じさせない気持の良い割り切りがそこにはある。

  「もう過去は振り返らない」「死んだ子の年を数える事はもうやめた」
  「これからどれだけのものが創り出せるのかだけを考える」

そんなメッセージ、叫びが聞こえてくるかの様。どれほどの苦悩があったのだろう。直接被害を受けていない僕には想像もつかない。

誤解を恐れず言えば目標は高すぎるうえ、宣言地点から目標までの中身は「空っぽ」である。しかし「空っぽの中身をこれから詰める、何年かかるかわからないが必ず詰める」とも言っている。

さらに、誤解を恐れず言えば「金を貸してくれ」と言っている。しかし、そんなことが霞んでしまうくらい強いメッセージがそれに続く。

  「必ず返す」 「必ず ”働いて” 返す」

そんな強いメッセージ、約束。

  「あぁ、これなんだな。僕が欲しかったものは」

そう思った。自分が「寄付」という行為で欲しかったものが何なのか、がようやく理解できた。寄付という行為に通常見返りは求めない。僕もそう。マイクとかを向けられて聞かれたら確実にそう答えると思う、この一般的に無難と思われる答えを。

でも、このメッセージに触れてわかった。やっぱり何かを欲していたんだな、と。こういう「元気」「やる気」を買いたかったのだ、と。

ある種の開き直りが生んだ苦肉の策だと思う。ただ、僕にとってこの開き直りはとても清々しいものだった。

中身はこれから詰める。何年かかるかはわからない。
しかし必ず宣言通りに実現してみせる。
確証はなにもない。しかし、必ず返す。必ず ”働いて” 返す

そんな強烈なメッセージ。勝手な僕個人の思い込みによる勘違いかもしれない。でも、本当に情熱だけで全てを達成してしまうのではないか? そんな見ているだけでこっちまで元気になってしまいそうなあふれ出る情熱を感じた。この熱にふれようやく覚悟が決まった。やる気になる切っ掛けはいろいろ有るのですが、最終的に腹がきまったのはこれらプロジェクトが発しているように見える熱に当てられたから。

「かんばれ」「俺も頑張る」「俺は頑張った(あなたは?)」「そこまでやったか! ちきしょー、俺のこれからをみてろ」」そういうやる気があふれ出るスパイラルを生み出せそうな関係性を築ける可能性をこれらプロジェクトに感じたから。

やる気は常に減っていくものですから、増幅しあえる関係とか、何かしらの渦の中にはまり込まない限りなくなってしまうものだと思うのです。しかし、そんな関係性さえ作れれば「やる気」がなくなることはなくなる。そうなればすごい事です。そんな関係性が築けそうな可能性を感じたので、頑張れる理由がみつかり、腹が座りました。

いままで一番欲しかった「やる気」が自然と湧き出てくる何か、がようやく見つかりそうだったから。

来週に続きます。